ぼちぼちでええやん。

人の動きについて根っこから理解したいと思ってます。シンプルラーニング提唱者、キネステティク理事、YOUTUBE「楽な動きの学習会」ブログは癖が強い記事が多めです。

奇跡が当たり前になるように

データから予後を予測するとか、確立されたアプローチの実施などは、専門的である関わりかもしれない反面、奇跡を起こすことは難しい。

 

それは専門性の枠の中でしかアプローチをしなくなるからだ。専門性というのは今までみんながたくさん探検した洞窟みたいなもので、すでに発見し手を入れられている。専門的なアプローチをすれば、ある程度みんなと同じ効果、同じ結果が出やすい反面、それ以上の結果は狙えなくなる。大きく外れはしないけど、同時に予想外の奇跡も起きない。

 

奇跡といえば、神様に願うもの。と思う人もいるかもしれない。だけども僕はそういう奇跡を起こそうとしているわけではない。僕らが起こそうとしている奇跡は、今までの常識では得られなかった結果を、今までの常識ではない、つまり非常識な関わりで奇跡を起こすことだ。そしてその奇跡当たり前のように実現できる世の中にして、奇跡が奇跡でないようにしていきたいと思っている。

 

『自分の中で予想とは全く違うもの』を人は奇跡という。今の文化を300年前の人が見ると、ほとんどのことが奇跡だと思うだろう。テレビを見る、電話で相手と話す、飛行機で移動する、googleMAPで地球を観測する。昔の人がこれらを体験すると奇跡だと思うだろう。だけど現代で、テレビを見たぐらいで、電話したぐらいで、飛行機をみたぐらいで、googleMAPで道を検索したところで、奇跡なんて思う人は誰もいない。昔奇跡だと思った非常識なものは、今はすでに当たり前のものとして存在している。

 

僕は人に対するアプローチだってこのように奇跡が当たり前になってほしいと思っている。今までが無理でも、これからも無理とは限らない。今までの定説が、これからの定説とは限らない。もしかたら予想のしない方法で、予想もしない回復だってするかもしれないのだ。

 

奇跡は何も特別なものではない。予測できない外にあるものを奇跡だと呼んでいるだけだ。だとすれば、専門性という枠をもっと柔軟に広げようではないか。専門性に固執せず、今までのやり方に固執せず、奇跡を起こすために常識から離れてみようではないか。自分が思っていることの外にこそ奇跡はあるのだから、自分の思ってもいないことにチャレンジしてみようではないか。

 

ただ、奇跡を見つける中でまがい物がとっても多いことも知っている。よくわからない薬やキノコ、民間療法、宗教、詐欺的なもの。多くはこれさえ信じれば良くなると謳っている。はっきり言いたいが『奇跡は盲信することでは起こらない』。絶えず、疑い試行錯誤してのみ奇跡はおこる。奇跡は何かを信じこむことではなく、常に探求していく、疑うことも大切なのだ。疑うことなくしては奇跡は、ただのまがい物になる。言い方は変だが、車という乗り物を疑ったから飛行機ができ、ニュートン物理学を疑ったからアインシュタイン相対性理論ができている。疑うことは発見の中でとても大切だ。

 

大きなものではなくても目の前の小さな奇跡はいつだって探していける。奇跡は特別なものでない。神々しいものでも、スピリチュアルでも、呪文でも、魔法でもない。ただの自分の予想外の出来事だ。奇跡だと言うと、怪しいように思われるから、再度しつこく言うが、予想外の出来事を奇跡だと言っているだけにしか過ぎない。

 

あなたは奇跡を起こしたいと思って毎日を働いているのだろうか。それとも、予想どうりの世界で予想どうりのことをしたいのか。果たしてどっちなのだろう?僕はたくさんの奇跡を起こしたい。目の前の人をたくさん有り得ないと驚かし喜ばしてあげたい。自分が楽しむために。自分がこの仕事してよかったなぁと思うために。だからこそ色んな常識を疑い、学び、探求し続けている。それだけをシンプルに。シンプルラーニングとして。

 

シンプルラーニングは、動きの学習といっても、人に動き方そのものを教えるものではない。あなたは学ぶことができますよ。という許可を提供している。そして多様な自分の可能性を見つける手伝いをする。教えないから、人は自ら学ぶのだ。このように動くことがいい。とか練習することでこの動作を身につけましょう。とか自分の身体に無理やり外からの動きを押し付けるのではなく、どう動けばいいかは本人自ら気づき、発見するものだ。

 

多くの人は動き方を知らないのでない。学び方を知らないのだ。もっと簡単に言うと、自分なんて誰かに教えてもらわなければ何も学べないと、自分で学ぶことを無意識的に放棄している。だからこそあなたは学べるよ。と許可を与えると、自分で動きを見つけ、自分で動けるようになる。一見非常識かもしれない。教えないから学ぶと言うのは10数年前の自分が知っても非常識だと思うだろう。

 

もちろん教えないこととほったらかしにすることは違う。学ぶ許可をだし、学んでいることを邪魔せず、時に失敗も一緒にしながら寄り添うのだ。

 

シンプルラーニングのことも疑ってくれてもいい。むしろ疑ってほしい。ただ学べばわかるが、シンプルラーニングはただの言葉であり、自分自身の思い込みや、動き方を疑うための、今を疑うための道具でもある。シンプルラーニングそのもの答えはないのだ。あくまでも探求する道具であり、答えは自分で見つけるものだからだ。それは援助する人も、また援助される人同じなのだ。自ら学ぶことに許可を与えることで人は試行錯誤し、疑い、自分にあった答えを見つける。そして自分の答えを尊重できるからこそ、他の人の答えも尊重できるようになる。あなたはその答えで、私はこの答えでみんな違うねと。違いを認め合うことは何か一つを盲信してるとできないことなのだ。

 

本質的に人は自ら学ぶ。適切に学びの許可を与えると、自然に動きを学ぶ。あなたも赤ん坊の時そのように学んだだろう?誰かが教えてくれなくても、自分で寝返りを覚え、立ち上がり歩いたのではないか?相手を変えようとしないからこそ、時にびっくりするぐらいの予想外の奇跡を生むことがある。自然に変わるかこそ、あり得ない動きさえできるのではないだろうか。

 

以前のブログにもシンプルラーニングは自由になるための翼なんだということを書いた。

参考記事

シンプルラーニングで自由で平和に - ぼちぼちでええやん。

シンプルラーニングは専門性という檻の中から外に飛んでいくための翼そのものだ。外の誰も荒らしていない世界で、まだ誰も知らない未知の発見をしていくための道具なのだ。答えは翼にはない。答えは新しい世界にある。そして僕はシンプルラーニングを配って、みんな新しい世界に飛び立てるように、みんな冒険してほしいと思っている。

 

そう、みんなでたくさんの奇跡を見つけ、それが当たり前の世の中になるように。

 

そんな仲間を増やしたくて活動しています。

 

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