ぼちぼちでええやん。

人の動きについて根っこから理解したいと思ってます。シンプルラーニング提唱者、キネステティク理事、YOUTUBE「楽な動きの学習会」ブログは癖が強い記事が多めです。

意識する。言葉にする。やり方を変える。それでは動きは学べない

赤ん坊は動きを方を

言葉で、意識して、思考して

学んでなどいない。

 

私たちは

ランダムに動き

感覚を使い

無意思的に学習をしてきた。

 

私たちは

気付いたら立ち上がり

気付いたら歩いていた

 

誰かにやり方を教わったものでもないし

言葉で覚えたわけではない

 

私たちは

無意識に学び

無意識に動いてきた

 

それを理解しないと

動きの本質には近づかない

 

言葉は確かに

動きに大きな影響はあるが

それらは半分もない。

 

youtubeで教えられることなんて

15パーセント程度にしかならない。

 

私たちは生まれた時から

無意識に動き、発達してきたのだ。

 

今だってあなたは無意識に座っているか

立っている。

 

どうように背骨をコンロトールしているか

意識しているか?

 

ただ漠然と立っている、もしくは座っているだけだろう。

 

ただ、それでいいのだ。

あなたにはいちいち考えなくても

動ける能力が備わっている

それを使えばいい。

 

なんでも

言葉にして意識ばかりを使っていると

最初はうまくいくかもしれない。

 

だけど

長期的にあなたの思考や言葉は

あなたの「考えなくても動ける能力」を抑制していく。

 

なんでも考えて動くなんて不自然じゃないか。

この世の自然動物の素晴らしい動きは考えているからなのか?

 

そうではないよね。

 

やり方を変えたら立てるようになる?

それは本来立てる能力が隠れていただけだろう。

 

より背骨をイメージした

動けるようになる?

ほんとに?

イメージすることで

理想の自分を無理やり押し付けて

ごまかしていないかい?

 

そもそもあなたのイメージは

本当にあなたの背骨と同じなのか?

 

よい姿勢にしようとして

背中なんて無理に長くするものでなない。

そんなの気づけば無意識的にやっているものだ。

 

意識的にやるようなものではないし

意識すればするほどこじれる。

意識とは無意識は協調することはあれど補うものではない。

 

無意識は無意識で学ぶ必要があるのだ。

そこが抜ければ片手落ちもいいところになる。

 

無意識の学びのキーは

感覚にある

 

感覚を通じて

脳を動きのプログラムを発達させていくことができる

 

 

だけど皆無意識や感覚をよく知らないから

いつの間にか意識的にやってしまうことで

感覚の邪魔をしてしまっている。

 

感覚は言葉にできない

感覚をどう言葉にしようが

言葉にした時点で

それは意識的になり思考になり概念になり

 

感覚の本質削ぎ落とされてしまう。

 

重いとか、固いとか言葉で表現すると

情報はとたんに抽象的になり

本来の感覚という情報は削ぎ落とされる

 

動きをほんとに学びたいなら

言葉にできないものを

言葉にできないままに

扱う方法を学ぶことだ

 

マジでこの世の中

方法論、概念、テクニックなどで溢れて帰っている

 

「言葉にならないこと」を学べる場がほとんどない。

 

誰しもがうまくいかない場合

やり方を見つめなおし、それを変えれば解決すると思っている。

そんなの頭でっかちだ。

 

どんなに方法を工夫しても自分で起き上がれない人もいるし

どんなにやり方を工夫しても筋肉がピクリともしない人もいる。

それが私たちの現実ではないだろうか。

 

言葉を変えるなら

言葉を変えて解決したらいい。

 

だけと

言葉をいくら変えても解決しない場合

言葉ではない問題があるのだ。

 

言葉のしゃべれない動物が

どんな感じで動いているか

 

言葉じゃない理解で

理解できるのだ。

 

なんでも言葉にして学ぶのは

人間の悪い癖だ

 

人は言葉にすることで

この複雑な世界を少しだけでも

わかったと思い込んでしまう

 

時に神を崇めることで

時に学問に盲目になることで

時に権威を見上げることで

 

わからないものに名前をつかればわかったつもりになって安心する。

 

他人の言葉を自分の言葉のように使ってわかったつもりになる。

 

しかし

時に

言葉にできない学びにこそ

本質がある。

 

こんなこと書くと

怪ししいと逆に思われるかもしれない

 

だけと強調したい。

 

本当の本質は言葉では学べないし

体験した中で言葉にできないことこそが

 

私たちの

学ぼうとしていることなのだ。

 

それこそがみんなが探しているものなのだ。

宝探しっていうのは、今の自分に想像もつかないかことを探すから価値がある。

 

 

「言葉にできない学び」がある

言葉にしなくても

「それを援助する学び」もある。

 

きっと僕が一番伝えたいとこと

その部分なのだ。

 

そして僕だけしか

おそらく伝えられないことなのだと思う。

 

いや僕だけでない。

僕と一緒に学んだ人が、少しずつだけど伝えている。

 

周りの人に

周りの患者や利用者に

色んな実践を通じて少しずつ。だけど確実に。

 

だから実際に体験して欲しい。

自分の体で体験して、感じ、言葉にならない学びを学習して欲しいと思う。

 

テクニックとか概念とか

そいういう領域を超えていけるもの

 

きっと今までとは違う視点が広がると思うし

ずっとあった違和感に気付けるかもしれない。

 

あーコロナめ〜

こんな大切なことを伝える場を減らしやがって

 

でもぼちぼちやっていくしかないよなぁ