ぼちぼちでええやん。

人の動きについて根っこから理解したいと思ってます。シンプルラーニング提唱者、キネステティク理事、YOUTUBE「楽な動きの学習会」ブログは癖が強い記事が多めです。

何も知らなくても動きは学べるよ

動きの学習という視点では

学問はその本質を表さない。

 

例えば

解剖学は他人の体であって

自分の身体を表していない

 

共通点もあるが

違いが多い

 

自分の身体という意味では

解剖学は本質とは言えない。

 

もちろん

あなたの体も解剖学とは違う身体だろう。

 

あたりまえのことを言うけど

私たちは

解剖学を知らなくても

歩くこともできる

 

自分の身体を感じ

動くことができる。

 

知ることでは

感覚を学ぶことはできない。

 

言葉にした時点で感覚は知となり

感覚の本質は抜け落ちていく

 

感覚と知の世界は全く別のもの。

 

感覚の世界は

頭で考えることばかりすると

逆に到達できない

 

それを

知識にしようとすればするほど

言葉にしようとすればするほど

遠ざかるもの

 

わかったつもりになり

たどりついたつもりになる。

 

だけど

その足元はいつもの知の世界であって

感覚の世界ではない。

 

わかって、足元をみて

またわかって、足元をみて

どうどうめぐりを繰り返す。

 

感覚とは

わからないもの

言葉にできなもの

確かに存在しているか、不明確なもの。

 

知にしようとすればするほど

遠ざかるもの

 

感覚を通じて

学ぶことはできるけど

言葉にすることで、それはポロポロと手から落ちてしまうもの。

 

そこに気付けるかどうかで

動きの学習という本質に近づくかどうかが決まる。

 

沢山勉強すればいいわけでない。

知識を追求すればいいわけでもない。

 

もう一度

なぜ赤ん坊が歩けるようになったか思い出せ

 

そこに言葉はあったか?

そこに知はあったか?

 

赤ん坊が解剖学を知っているか?

街を歩いている人は歩き方を明確に言葉にできるのか?

 

何も知らなくても大丈夫。

そもそも感覚は常に存在する。

 

気づけばいいだけなのだ。

 

何も知らなくても

私たちは動くことができる。

 

頭で考えることをやめ

身体で感じれば

私たちは学ぶことができる。

 

それは人間が持っている能力だ。

人は誰しも学ぶことができる。

 

何か知らなくても

誰にも教えてもらわなくても

自分で発見し、気づくことができる。

 

難しく考えなくていい

むしろ考えなくていい。

 

赤ん坊のころのように楽しく

無邪気に学べばいい。

 

僕らは頭でっかちになって

動きの学び方を忘れているだけなのだ。