ぼちぼちでええやん。

人の動きについて根っこから理解したいと思ってます。シンプルラーニング提唱者、キネステティク理事、YOUTUBE「楽な動きの学習会」ブログは癖が強い記事が多めです。

具体として触れる

多くのリハビリや医療などの専門職は人体の構造を、知識として学びます。

 

ここは何々筋が走行して、ここの隆起している部分は何々骨で、というふうに知ってるわけです。

 

それに、なんだから詳細に筋肉や骨を語ると、よく知って感じがして、専門職として有能な感じがします。

 

しかし、本来動きとは、具体的な身体が具体的に動くものが、私たちの動きです。

 

知識という抽象化された前提で相手に触れると、相手の身体を抽象化して認識してしまいます。そうなると、情報はかなり限定的になり、本来の生き生きとした具体としての動きを手伝えなくなるのです。また、人の形はそれぞれ全く違うので、頭で知ってる筋肉と、目の前の筋肉は明らかに違います。

 

何々筋として触れると、すでに、皮膚の質感、かすかな身体の応答、血流、汗、温度、生き物とひて生々しさ、そういったものを無意識的に無視してしまうのです。

 

知識が無駄かというと、そうではありません。知識は情報を整理するのは役にたちますが、触れてる時には知識は邪魔をするということもあるということです。

 

知識は使い方によって役に立つこともあれば、逆に役に立たないこともあります。いくら知識が正しくても使い方を誤れば、役にはたちません。知ってるだけてはダメなんです。どう使うか?を学ぶことで、知識はより有効に使えます。

 

話が少しそれましたが、専門職ほど、このような抽象化して相手に触れ習慣が強いのです。

 

忘れてはいけないのは、相手はそんな抽象化された存在ではなく、今ここで、生々しく生きている生物。それが人間です。

 

言い方は悪いですが知識として、触るのではなく、生々しく相手触れる。現代はあまりに人のことを抽象化して、生物だということさえ、どこか忘れがちです。文化という皮を被ってるだけにすぎませんか、私たちはおしっこもウンコもする生き物です。つばもでるし、オナラもする。それが生きているという事です。

 

ちなみにテレビに出てるアイドルも、俳優も同じです。

 

生々しい人同士が触れてる事が生きてることであり、触れなくも私たちは生々しく関係性をとり、生々しく生きていくのです。気持ち悪い表現かもしれませんが、それが生きていることなのです。

 

具体として触れるということは、生々しい人が、生々しい相手に触れる。だからこそ、本当に生きていることを、手伝えるのです。