ぼちぼちでええやん。

人の動きについて根っこから理解したいと思ってます。シンプルラーニング提唱者、キネステティク理事、YOUTUBE「楽な動きの学習会」ブログは癖が強い記事が多めです。

ハンドリングは根性論や精神論ではなく

ハンドリングは精神論ではありません。

 

身体を操作するときに

相手と全身全霊で向き合う

などの根性論になってしまいがちですが

 

実際

本当ところ人が何考えてるかわからないので、

相手にも必ず伝わるものでもないし

 

全身全霊で向き合えばどうにかなると

なってしまって、精神論を高めるのは

 

ハンドリングにおいて遠回りです。

 

ハンドリングがうまくいかないのは

気合が足らないから

 

とか

相手と向き合ってないから

などという理解になってしまいます。

 

もちろん向き合うという事は必要だと思いますが精神論に偏りすぎる必要はありません。

 

向き合う事は精神ではなく、

相手の動きについて向き合うのです。

 

相手と関わった時の

ちょっとした反応や応答に向き合い

邪魔しないようにすること

相手の動きを尊重すること

 

などにより、自発的な応答が出やすいようにすることが向き合うということであって

 

相手ともっと向き合う気持ちが足りない

などとなると、ますます自分という存在を援助者は押し付けてて

邪魔をしたり、変化を強要したりします。

 

そのうち関わる人の変化がでない事に対して

相手を思いやる気持ちが足らない

真剣さが不十分だ

人として真っ当に生きてないからだ

 

なんて言われ兼ね合いません。

 

逆にいつもまにか

一緒懸命されてる関係性が催眠のようになって

動きを手伝ってつもりが

思い込みで動いてるだけにもなりかねません。

 

極端に言うと、相手を思いやる気持ちがあってもハンドリングが下手な人はいるし、なくても上手い人もいます。

 

真剣にやらなくても、柔軟にする人もいます。

 

真っ当な生きてる人が窮屈に感じる人もいます。

 

人は多様です。

精神論では

ハンドリングはうまくいかないのです。

 

向き合うとは

相手の動きの変化を感じることです。

 

小さな動きや応答を見逃さないようにすることが向き合う事です。

 

つまり、物事に繊細になるための感覚を磨くことです。

 

そして自分自身にも繊細に。

 

誤解を恐れずいいますが

 

少々ゲスい人間でも、相手に触れてる時に隠せば、何考えてるかなんてわかりませんし、その時繊細に関われば相手の助けになります。

 

逆に、相手を助けたいという思いが溢れすぎて相手が自ら変わることを邪魔してる人もいます。そん時は一旦その気持ちを隠せばいいのです。

 

何を思ってやろうが、自分がどんな人であろうが、動きの支援をしてる時には、動きに視点を当てればよいのです。

 

聖人にならなくても

熱血的にならなくても

 

ゲスくても

資格があってもなくても

 

動きに注目して、ハンドリングを学べば

上手くなるのです。