ぼちぼちでええやん。

人の動きについて根っこから理解したいと思ってます。シンプルラーニング提唱者、キネステティク理事、YOUTUBE「楽な動きの学習会」ブログは癖が強い記事が多めです。

教育系理学療法士はどうでしょう? 教育系看護師とか、介護士とか、新しい資格の分類を提案します。

無知の知』という言葉をご存知ですか??

 

ソクラテスの言葉です。

ソクラテスは自分の知恵は完全でないことに気づいていることを無知の知と呼びました。

 

知ってる。と思い込むことで

物事が見えなくなることを危惧していたのです。

 

世の中は複雑です。

一見明確なことでも、よく見ると複雑なことは沢山あります。

 

先日の指を曲げることがどれだけ複雑か。ということをブログで紹介しましたが、多くの人は一つ、二つの視点で分かったつもりになってしまいます。

 

人の動きは複雑なのです。 - ぼちぼちでええやん。

 

わからない。ということを知る利点は何も物事をさらに深く探求することができるだけがメリットではありません。

 

むしろ、わからないものとして割り切ったとき、わからなくてもコントロールできる術を磨くことことができるのです。

 

例えば脳はかなり複雑な構造です。今は脳の中身をわかることにより、より効果的なリハビリの介入ができると研究してますが、またまだその全容の解明には時間がかかるでしょう。だけども実際にその複雑な脳を使って、私たちは感じ、考え動いてるわけです。

 

私たちは知ることで、操作できる。と思いがちですが、案外構造を知らないものを操作しています。例えば今手に持ってるスマホの構造をちゃんと知っていますか?スマホの中身がどうなってるか明確に理解していますか?漠然としか知らなくても操作できてるでしょう??使い方を知れば構造を知らなくても使えるのです。

 

パソコンも同じですね。パソコンのGPUやCPUの仕組みを理解しなくても、アプリを立ち上げ写真を編集したり、ネットを観覧したりできます。プログラマーなんてより使い方を極める専門性もあります。

 

パソコン以外にも、洗濯機や、エアコン、リモコン、テレビ。私たちは中身を知らなくても使い方を覚え使っているのです。そもそも電化製品なんて電気そのものの詳しい性質を知らなくても使えてます。

 

つまり、構造を知ることと、使い方を覚えることは全く違うのです。ここを勘違いすると、中身を知らないと使えるようにはならないと勘違いしていまいます。

 

身体も同じです。身体の構造を明確に知らないと、使えるようにならない。と思いがちですが、私たちは中身を知らなくても、歩くとこもできるし、武術の達人にもなれるし、腕を上げてものを掴むことができます。

 

試しに街歩いている人に「どうやって歩いてますか?」と聞いてみてください。おそらく「知らん!」とか「んーなんとなく足上げて歩いる」とか明確な答えは返ってこないでしょう。

 

つまり、動けるようになるには、中身を知るのではなくどうゆう仕組みで使えるようになるのかを学ぶ必要があります。

 

逆に動けない人を援助する場合も同様です。その人の身体の構造よりも、どうやって動けるようになったかを理解しないと、動きを助けることができないのです。

 

リモコンの使い方を知りたいのに、ボタンの素材や構造について永遠語っても、リモコンは使えるようになりません。

 

勘違いしてほしくないのは、中身を知ることは、修理をするためには欠かせない知識です。また何かを作るためにも、構造を知ることは必須です。

 

医学界では主に修理するようなアプローチを治療と呼ばれています。治療は構造を知る必要があります。メスを使った手術や、脱臼を整復するのに役にたちます。人工関節のようなものを作り、それを手術でくっつけるには構造を知ることで出来るようになります。

 

使い方を変えたいのなら、どうやって使えるようになったのかの、過程(プロセス)やその仕組みを知る必要があるでしょう。楽に腕を使いたいとか、立てるようになりたい、歩けるようになりたい。といつ動きを学習するときは修理でなく、教育が役に立ちます。

 

自分は修理屋さんなのか、教育者なのか。それによって全く違うことを学ぶ必要があります。

 

ただ教育者としても、最低限の構造はリスクを知るために覚えておくといいです。例えばリモコンは無理やりグッと押し続けるとバネは傷む。とかそういうものです。なので構造を知ることをしたほうごいいです。ただし教育者のメインの知識ではありません。

 

修理屋さんは、中身を知ることでなおしますが、教育者は中身ではなく、動けるための過程や、仕組みを知ることで使い方を変えます。

 

あなたは修理屋、教育者どちらでしょうか?どちらになりたいでしょうか??

 

同じ資格でも何をしているかによって、実際の職業や学ぶことは変わります。例えば同じセラピストという呼び名であっても、修理屋さんか、教育者ではやること、学ぶこと実践することは全然違うでしょう。

 

例えばリハビリ場面において

筋肉の構造をもとに、アライメントを整えるように押し込んだり、曲げたり、伸ばしたりするものは修理でしょうし、脳が筋肉を適切に動ける過程を理解し、その操作を助けるの教育です。

 

正しい歩行動作を示し、そのとおりに練習させるのは修正という修理で教育ではありません。教育とは本人がどう動けは楽かを、脳を使いながら自ら探索し、その過程のなかで失敗を含め学習していきます。そのプロセスを尊重するのが教育です。答えを与えるのではなく、本人が答えを見つけるのです。

 

同じ資格だとしても、水道の修理屋さんと、学校の先生ぐらい別の職業になってしまうのです。

 

おそらく、今までのアプローチとは全く違うパラダイムシフトというやつだと思ってます。ここをごちゃごちゃに理解すると混乱します。根本として自分のしていることが修理か教育かを明確にすると、自分が何をしているのか、これから何を学ぶ必要があるのかハッキリするでしょう。

 

提案ですが、自分の職業に修理系とか、教育系とかの言葉をつけてみてはどうでしょう?

 

修理系理学療法士とか、教育系理学療法士とか

もちろん教育系作業療法士

修理系看護師とか、教育系介護士とか

なんかyoutuberみたいですが笑

 

認定なんちゃら専門士とか、よく提案されてますが個人的にはこっちのほうが好みです。ちなみに認定がついてても、教育系脳卒中認定看護師なんてようなことも可能です。

 

自分の専門の中で何をしてるか、何を目指しているのかが、明確になることで自分の専門性がらはっきりするのです。それは認定〜ではなく、もっと根本のところをハッキリさせる必要があります。

 

冒頭で無知の知を紹介しました。知ってるつもりになることは論外ですが、知らないことを知らないと自覚することは2つの道が生まれます。構造をより深く知ろうとする道、知らないものをより上手く扱う道です。

 

これはある種の道(どう)です。柔道や花道などという極める道です。修理系、教育系どちらが正しいなんてことはありません。それぞれ適切な場所があります。修理系の発展のもとに今の医学は進歩してきました。

 

ただ学習となると別です。学習は修正されるような受け身なものではありません。学習する本人が探求し、自らの能力を高めていくものです。つまり動きの学習には、教育系専門士がとても相性がいいのです。援助者は教育道を深めていく必要があるでしょう。

 

人なんていくら理解しようしても完全にわかりません。そもそも自分のことさえわからないのに、相手のことが明確にわかるわけはありません。だからこそ、わからない中で関わり、関係性を築き試行錯誤する。自分が考えもしなかったことを発見する。これが教育です。

 

あなたが、今どんな職種であれ構いません。教育道を自分の専門性の中に足してみてはどうでしょう?資格はそのままでも教育系に転職することは可能です。職場を変えることも、ハローワークも必要ありません。

 

自分はこの資格だから、こう!なんて狭い枠組みで考えなくてもいいのです。今の資格を生かすために、新しい概念と組み合わせることもできます。新しい職種の誕生です。

 

そもそも資格は手札に過ぎません。そこで自分がどんな仕事するかなんて自分で決めればいいのです。

 

皆さんは修理系、教育系どちらが自分にあっていますか??