ぼちぼちでええやん。

人の動きについて根っこから理解したいと思ってます。シンプルラーニング提唱者、キネステティク理事、YOUTUBE「楽な動きの学習会」ブログは癖が強い記事が多めです。

比較はするが、批判はしない

よく人と比較しない

と言われるが

 

私たちは比較しないと

自分のことなんてわからない

 

自分が背が高いと思ってる人は

周りに自分より背が低い人が多いから

そう思うだけで

 

2メートルぐらいの人が

街にたくさんいたら、自分は背が低いと思うだろう

 

自分は

短気だと思うのも、やはり

(他の人よりも)短気だ

というだけなのだ

 

周りにすぐに人を殴る人ばっかりだと

自分はなんて穏やかなんだろうと思う

 

人は自分が何であるか

比べずにはわからない

 

 

しかし比べることがダメだという人もいる

 

例えば

子供の運動会で

 

足の遅い子も速い子も

『みんな一緒ゴールしましょう』

 

そんなことをしていると

その子供はいつまでも自分が足が

速いのか、遅いのかわからない

 

『遅い子は可哀想でしょ』

 

なんていうが

それこそ価値観の押し付けであり

 

それは

『比較ではなく批判』

なのだ。

 

私たちは

比較はするが批判はしない。

 

批判とは

足が遅いからダメで

足が速いからいい

という

 

比較したことに対して

意味や価値をつけることだ

 

もしかしたら

足が遅い子は、早い段階で自分が速く走れないとしたら、みんなよりも先駆けて速く走れる練習もできるし

 

逆に足が遅いから他の特徴を生かすこともできるかもしれない

 

例えば

頭を使って将来億万長者になるかもしれない

 

もし足が早かったら

頭で勝負する発想は得られなかったかもしれない

 

それもこれも

相手と比較するから

自分という特性がわかり

 

今後どうしていくかという

戦略が立てられるのだ

 

永遠と

自分は足が遅いことに

気づかないと

 

どんな戦略も立てられなくなる

 

それは大変生きていくのに

不利なことだ

 

ただし

 

批判はする必要がない

足が遅いのなら、足が遅い事実があり

それが可哀想だとか

そんな風に意味をつける必要なんてないのだ

 

そもそも

私たちは情報を比較することで

明確にしている。

 

例えば

雲を認識するために

青い空の部分と

雲の色や形の『違い』を認識して

 

あぁ雲があるなぁと

初めて思うことができる

 

空の青が

白だとどこに雲があるのかわからないだろう

 

私たちのもってる

視覚や触覚などの

感覚の機能は

『違いを認識するため』にある

 

暑いと冷たい

固いと柔らかい

ザラッとしてる、スベスベしてる

 

そんな風に比べることで

世界を認識している

 

赤ん坊は

自分の身体の部分で

長いところと、短いところ

小さな部分と大きな部分

固いところと柔らかいところ

 

比べることで

自分の身体を認識しているのだ。

 

比較をしないということは

自分や世界を知らないまま

生きていく

ということになる。

 

それはなんて恐ろしいことだろう

自分の能力に気づかず

自分の能力を使わないまま

生きていくのだから

 

だからこそ

強調していいたい

 

『もっと人と比べよう』

 

たくさん人と比べて

自分を知ろう

 

ただし

批判はしなくていい

 

あの人のほうが優秀だとか

仕事ができるとか

そんは風に批判しても意味はない

 

優秀だから

プライドが高くなったり

 

仕事できることが

逆になんでも自分でしてしまうから孤立したり

 

もちろんそうじゃない人もいるけど

一側面だけみても、全体として

色々あるんだから

 

一見人より優れてるから

だからなんなんだ

人はそれぞれの自分で生きていくのだから

 

違いに意味をつけても

それこそ無意味だ

 

そうな風に

自分を批判しなくていい

 

ただ

事実だけを比較して捉えよう

 

そして

考えよう

 

自分の持ってる特徴で

これからの世の中をどう生きていけば

楽で楽しいのかを

 

批判するために人と比べるのではない

 

よりよく生きるために

自分を知るために比べるのだ