何かを学ぶとき、何かを省いている
例えば、僕はキネステティク(以下キネステ)という人の動きを学ぶための学習プログラムを提供していますが
それは、あくまでも人の動きの理解を深めるもので、
「キネステそのもの」のみを深めていく事ではありません。
僕はそのようなキネステを教育をしていません。
キネステを学ぶのは、あくまでも人の動きの理解と実践のためで、キネステはそのための道具の1つです。
1つの手法を極めるというのは、聞こえはいいですが、それ以外を捨てるということです。
そもそも、手法や方法論に答えはありません。それらは目的のものをより深く実践できたり、理解できるためのものです。
なんとか流アプローチを極めるという視点で、最初は人の動きの理解と実践をしたいのに、なんとか流アプローチを学ぶ事が目的になってしまえば、いつの間にか学ぶことがズレてしまっています。
もちろん、キネステが好きで深めたいことは悪い事ではありません。とっても便利な考えですし、うまく人の動きを学習できるように構成されています。僕も推奨してます。
しかしいつの間にかそればかりに傾倒し、他の情報に見向きもしなくなってしまえば、本来は人の動きの理解と実践がしたかったのに、いつのまにかキネステという枠の中でしか、考えられなくなります。
それでは本末転倒です。
最初は新しいものを学べば可能性は拡張していきますが、それにこだわり続けると、今度はそれ以外の情報が入らなくなるので、可能性が閉じていきます。
コインで例えると、オモテを学んでいる内は、ウラを見えません。
最初は全くわからないのであれば、オモテから学ぶ必要もあるでしょう。いきなりウラから入ってもわけがわかりませんから。
しかし、オモテばかり見ていると、いつまでもウラがある事に気づかないのです。
ウラがある事に気づくためには、手法や考え方にとらわれず柔軟に物事と関わる態度を育成する必要があります。
キネステを教わるにしても、他の何かを教わるにしても、それぐらい柔軟な講師から教われば、きっとその人の学びに対する態度も参考になります。
ウラが見つかると、とても嬉しくなるのですか、今度それで全てになってしまいがちです。
多くの人が知らないウラを知れば、もうそれだけで全て知ってるような気持ちになって、答えのように思います。
人は見たいものを見ます。
逆にいうと
見たいものだけしか見えません。
学習の本質とは、何かを考えを深めるだけではなく、常に色んな可能性と向き合っていく態度にあります。
態度の育成を抜きにして
何かを教える事は、コインのオモテだけ見せて全てわかったと思わせる事と同じなのです。今やっている手法が全てのように表現する教師には、注意して習う必要があります。
読んでいるうちに気づきました?
コインはウラとオモテだけではありません。
他に何があるでしょうか??
コインに、オモテ、ウラ、側面もあります。
さらに
中身もあり、さらにエッジの部分もあります。
さらに、さらに
そのコインから、目を離せば、隣に違うコインや、札だってあります。
もっと離れれば財布があり、電子マネーもあります。
コインのオモテばかり見ていると一生気づきません。
世界は一つの言葉や手法で表せるほど
狭くはありません。
もっと豊かで変化に富んでいます。
答えはオモテだけにあるのではないのです。
学習とは何かに傾倒し、信じることではありません。
学習とは常に探求していく態度にあります。
何かを信じ切った時点で、探求をやめた時点で
わかったつもりになった時点で
学習は止まります。
誤解のないように言いますが、
キネステもそんな態度の講師に教わることで、もっと自由に学びが始められるのです。
それに今度はオモテを見ない!!とオモテを全く見ないのも、それはそれで世界を狭めることになりますから。
電子マネーを使い続けてると、コインの絵柄がわからなくなるように。
オモテもウラもそれ以外も柔軟に学びながら、この世界を理解すればいいのです。