達人とはどういう状態か?
十代の頃テレビを見ていると、料理をもうすでに何十年と修行し、極めてる人のインタビューでこのような発言があったのを覚えています。
「包丁を、どのようにして握ったらよいのかわからない」
当時、僕みたいな素人には何言ってるんだ、握るぐらい当たり前にできるのに?ましてや実際に美味しい料理をこれまでたくさんしてるでしょう?なぜ握り方がわからないと思うのだろうと?
と不思議に思った経験があります。この状態、動きの学習を積み重ねてきた、今になって、まだ10年程度ですが、何度も何度も毎日僕もタッチやハンドリングを繰り返して、向き合ってやっぱり一緒のように思うことがあります。
さっきまで、利用者さんの足を明確にもっている、ハンドリングできていた思ってた事が、ふっと1つの事に気づくことで、
あれ?実は何もわかってなかったのではないか?
このように持てばいいと思っていたことが実はそうではないのではないか?
と思う瞬間が多々あるのです。そしてしばらくしてようやく足を持っつことを試行錯誤しながら、またわかってくると、
よしよし、新しい考えも発見できたし、これでバッチリだ。
としばらくまた動きの学習を手伝っていくと
あれ?やっぱりまだ、全然わかってない(以下繰り返し
となる経験がたくさんあります。これは個人的に足を持つことだけでなく、寝返り介助とか、何にでもある経験です。実際に教えているぐらいですから、まぁまぁな介助はできますが、寝返りの介助がわからないと急に思う事もあります。
今でも本当の意味で足を持っていなかったと良く思います。今の実践の中でも、自分は「足を持つ」という単純なことでさえ、「足を持つ」ことができているんだろうか?と疑うことは日常茶飯事です。
実はこのような、あれ?ということをキッカケに本人と向き合い試行錯誤することで、少しずつ1つの物事を繊細に感じ取れるようになっているんだと思います。
やって行くうちに、繊細になるから、また違う事に気づく。今まで正しいと思ってたものから、また新しい可能性に気づく。
実は大雑把に今までしてることを、多くの人はできてると思います。少しやり方や考え方がわかれば実際にこれまでとは違うことが可能になるでしょう。しかし、実際やっていくといくらでも繊細にできます。繊細になったとき、昔の自分は何もわかったようでわかっていなかったと思うのです。
料理人も単純に「包丁握る」ことでさえ、自分の毎日の体調や変化によって、微細に変えていき、よりキレのよい、もしくは素材によって、包丁の使い方を柔軟に変えています。
これは、ただの流れ作業や、反復練習によって獲得できるものでもなく、常に毎日の仕事と繊細に向き合い、毎日同じ料理を作るにしても、
素材の違い、季節の違い、温度の違い、自分の状態の違いなど向き合いながら、常に新鮮な気持ちで試行錯誤していることで、初めて繊細に、また積み上げていく事ができるのです。
動きの学習では、相手に触れる、関わることの、自分の緊張や動きを丁寧に観察することはもちろんのこと、やはり立つ、座る、起き上がりなどの日常の当たり前にできている動きより繊細に探求していくことです。
実は僕もたまに、どう目を開けたら良いかわかなくなって一人で運転している時も、目が瞼が重くなって、とっても大変だったり、どう歩いたら良いかわからなくなる時期があり、実際にその時期は下手になってました。ハタから見たら、当たり前にしていたことができなくなるなんて、意味わかりません。笑
これは拗らせすぎだと思いまうす。
だだその試行錯誤と向き合ったとき、また新しい発見があります。
達人とは、常に繊細であることです。そして、その追求は死ぬまで続くのです。達人とはこのレベルになったから達人と呼ばれるものではなく、追求していく「態度」にあります。
ああ、そんな料理人のご飯食べたいなぁ笑