ぼちぼちでええやん。

人の動きについて根っこから理解したいと思ってます。シンプルラーニング提唱者、キネステティク理事、YOUTUBE「楽な動きの学習会」ブログは癖が強い記事が多めです。

言葉に振り回されない

コミュニケーションにおいて言葉というのは、受け止め手により意味が変わるものです。

 

同じバカでも

 

バカ!!

 

バカ♡

 

で全然意味合いが違うのです。

 

前後の文脈をつけるとより明確です。

 

も〜 バカ!!

 

も〜 バカ♡

 

というように、言葉の意味は状況や受け止めてによって常に変化するのです。

 

言う人によっても違いますね。

 

例えば、とっても可愛い女優さんが

も〜 バカ♡♡♡と言うのと

 

自分が気持ち悪いと思うおっちゃんが

も〜 バカ♡♡♡と言うのでは

 

だいぶ意味は変わると思います笑

 

このように、言葉というのは同じ言葉でも受け止め方や関係性、状況により意味は変化します。言葉を洗練する為には大切なのは、言葉の正確さや正しさを訴えることではありません。また言葉に対して、制限をかけたり、他人の言葉を否定することでもありません。

 

言葉に正しさなんてものは存在しません。

いくら正しい言葉を使っても、それは状況によって意味は変化するからです。

 

よく頑張れという言葉を使うなと言いがちですが、それも受け止めようだと思います。

 

僕は頑張れと単純に声をかけてくれたら、応援してくれているようで嬉しいし、とってもありがたいです。

 

そして「ありがとう」と言います。

 

その時に言ってくれた相手に対して

「頑張れという言葉は適切ではない」とか

「頑張れというのは、緊張を高めて動く為に役に立たない」

というのはとても悲しい人間関係です。

 

もちろん、実際そのように受け止めて困っている人もいますから、その人は言葉を変えればいいです。頑張れという言葉そのものに罪はありません。たかだか言葉なのです。必要なければ使わなくても構いません。

 

僕は単純に好意を持って頑張ってくださいと言われても、緊張を高めて動くような事はしませんし、応援してくれている気持ちを汲み取って逆に緊張は緩まります。

 

頑張れという言葉は僕にとっては、緊張を低下させてくれるありがたい言葉です。

 

どんな言葉でも受け止め方や状況次第で意味は変わるのです。

 

言葉をうまく使いたいときに、正しい言葉を使用しなければいけない。と思った時に、実はドツボにはまるのです。

 

「頑張れという言葉」を使用しないようにしましょう。なんて、本末転倒もいいところです。言葉の本質は受け止め方にあるのですから。

 

この行為がさらに深刻なのは、個人がどう言葉を受け止めることの自由を奪われてしまいますので無意識的な心の抑圧や、精神支配につながりかねないことです。

 

言葉を正しく使いましょうという人は、無意識的に人をコントロールしようとしてることに気づいていません。

 

言葉が変だからと言って批判する人は、相手が間違ってるのだから訂正して人を責めても構わないと無意識的に思っています。言葉に正しさを求める人は、自分の期待通りに言葉を使わない他人に勝手に憤慨し、自分の思考を認めて欲しいだけです。結局自分が正しいと言いたいだけなのです。

 

相手に対して「これをすべき」「これをせねば」という言葉を使わないとしても、そのような態度は人をコントロールするために、言葉を使ってるのです。

 

言葉をどう受け入れるからは、個人の自由であり、他の人にどうこう言われるものではありません。むしろ言葉をこのように受け止めなければならないという考えは、自分の自由な思考を奪い、一つの考えを盲信させていくことなるのです。言葉の受け止め方の自由は、思考の自由さの基本となるものです。

 

正しさのおしつけは、言ってる人の満足感を埋めるかわりに、多くの人の受け止め方の自由さを無くし主体性を奪っているのです。言葉に正しさを求めて人を批判し攻撃するのならば、いくら科学的で理論的に正しかろうが、よほどその方が言葉の使い方がガサツで乱暴です。

 

そう、言葉を丁寧に使えているかどうかは、どんな言葉を喋るかではなく、使う人の態度で決まるのです。

 

また「頑張れという言葉」と「実際に頑張って緊張している現象」は=ではありません。

言葉は絶えず、自分の中で意味を持ち、実際の現象へ変換されます。

 

言葉通りに意味を皆同じように、受け取るようはものでななく、僕らは言葉を自分なりに解釈し、そして現実と向き合っているのです。

 

その言葉が正しかどうかなんて、言葉そのものにあるのではなく、それを使う、もしくは解釈する私達にあるのです。

  

同じ「バカ」でも、喜ぶ人もいれば腹をたてる人もいる。キモいと思う人もいるでしょう。そして状況や関係性が変われば、また捉え方も変わってくるでしょう。人は関係性において意味を判断します。辞書の定義通りに意味を受け取らないことなんて多々あります。

 

「バカ」でも、関係によっては反対の賢いという意味で捉えることもあるし、バカが愛情表現だったり、色んな言葉の広がりがあります。辞書では表現できない世界が、私たちの生きてる世界です。だからこそ、言葉に振り回されず、関係性の中で豊な言葉を学習することが、言葉を使うプロなのです。辞書ばかり見つめていても、コミュニケーションは上達しません。どんどん頭でっかちになるだけです。

 

言葉が適切かどうかは、辞書でもなく、えらい人が決めるのでなく、その言葉を使う当事者や受けとめ手が決めることなのです。

 

それだけならいいですが、言葉そのものに正しさを持つということは、自分たちの信じる言葉を使わないことで、言葉の使い方を他人が誤っていると判断するようになります。無意識的な排除思想は自分の思考を奪うだけでなく、ほんとはこんな風にかんがえなければならないのに!もっとまともにしゃべって欲しいと、他人に押し付け、今度は他人の考える自由を奪います。

 

そして、自分の意にそぐわない他者を排除します。たちが悪いのは、排除するのに、正当な理由を付けてるから、自分が正しいと思ってるのです。自分に正当性といつ理由をつけて、他者を排除することの正当性を主張します。それはただの屁理屈です。この屁理屈な態度こそ、言葉の乱暴な使い方そのものだと僕は思っています。屁理屈を述べれば他者を傷つけていいなんて、かなり横暴ではありませんか。

 

言葉というのは不思議なものです。使い方によっては、その人の思考を助けることもできるし、逆にその人が思考することを奪うこともできるのです。

 

言葉の本質とは関係性であり、その状況です。並べられた文字は所詮文字の塊にしか過ぎないのです。

 

言葉を磨くには、どれが正しくて正確だという思考から抜け出し、解釈する私達の生き方を洗練して行くことが必要です。そしてどんな言葉でもお互いお違いを認め、理解していくことから始まります。言葉にこだわりすぎることでの無意識的な排除思想では言葉に振り回れるだけです。

 

言葉に向き合うのではなく、それを使ってるあなたと向き合う。その時、同じ言葉を使ったとしても「あなたはそのように理解してるのですね」「私はこのように思えます」と個々の違いを尊重することができるです。

 

どんな言葉を使うかなんて、どうでもいいのです。曖昧でもいい。むしろ言葉に対してどのように向き合うかという態度のほうが大切なのです。その態度が養われたとき、初めて言葉も思考も自由になるのです。

 

綺麗な言葉や、科学的で正確な言葉を使うのが、人間関係において洗練された言葉ではありません。たくさん言葉を知ってるかは、言葉を使うプロでもありません。

 

人と向き合う為に言葉を自由に使用したとき、そしてその言葉が他人や自分を幸せにした時、それが結果的に洗練された言葉になるのです。

 

言葉になんて本質はありません。本質はいつもその言葉を使う私達にあるのですから。そこが理解できた時、言葉に振り回されず、上手に使う事ができるでしょう。そしてこの文章を読んでもし理解できないなら、すでに振り回されてるのかもしれません。理解に至る体験をすることが足りてないのです。

 

さてあなたはどう関係の中でこの言葉を受け取るでしょう?快適に受け取ることができるでしょうか?どんな受け止め方もこれから豊かに生きれるのなら、あなたが決めていいのです。