ぼちぼちでええやん。

人の動きについて根っこから理解したいと思ってます。シンプルラーニング提唱者、キネステティク理事、YOUTUBE「楽な動きの学習会」ブログは癖が強い記事が多めです。

YOUTUBEはじめました。

皆さんお久しぶりです。

突然ですが
YOUTUBEはじめました。」

楽な動きの学習会というチャンネルで
ケアやリハビリテーションに役にたつ

内容をお届けしたいと思います。

第一弾は
「プロも誤解している!?杖の本当の使い方」
です。

 

www.youtube.com




慣れないこともあり
聞き取りにくさもあるとかもしれませんが
温かい目でみていただけると嬉しいです。

ちなみにYOUTUBEでは
自分の名前でもいいのですが、発音しにくいので
SAMと名乗って活動します笑

第2段も予定してます。

テーマは
「痛みをこじらせないために!!
根本的に間違えている痛みの捉え方」(仮)

です。このように今後も定期的に
福祉や医療に役に立つことを
できるだけ簡単に、実践的にお伝えしていく予定です。

もしよろしければチャンネル登録や高評価お願いします。

コロナで大変な毎日ですが
少しでも何かにお役に立てれば幸いです

何も知らなくても動きは学べるよ

動きの学習という視点では

学問はその本質を表さない。

 

例えば

解剖学は他人の体であって

自分の身体を表していない

 

共通点もあるが

違いが多い

 

自分の身体という意味では

解剖学は本質とは言えない。

 

もちろん

あなたの体も解剖学とは違う身体だろう。

 

あたりまえのことを言うけど

私たちは

解剖学を知らなくても

歩くこともできる

 

自分の身体を感じ

動くことができる。

 

知ることでは

感覚を学ぶことはできない。

 

言葉にした時点で感覚は知となり

感覚の本質は抜け落ちていく

 

感覚と知の世界は全く別のもの。

 

感覚の世界は

頭で考えることばかりすると

逆に到達できない

 

それを

知識にしようとすればするほど

言葉にしようとすればするほど

遠ざかるもの

 

わかったつもりになり

たどりついたつもりになる。

 

だけど

その足元はいつもの知の世界であって

感覚の世界ではない。

 

わかって、足元をみて

またわかって、足元をみて

どうどうめぐりを繰り返す。

 

感覚とは

わからないもの

言葉にできなもの

確かに存在しているか、不明確なもの。

 

知にしようとすればするほど

遠ざかるもの

 

感覚を通じて

学ぶことはできるけど

言葉にすることで、それはポロポロと手から落ちてしまうもの。

 

そこに気付けるかどうかで

動きの学習という本質に近づくかどうかが決まる。

 

沢山勉強すればいいわけでない。

知識を追求すればいいわけでもない。

 

もう一度

なぜ赤ん坊が歩けるようになったか思い出せ

 

そこに言葉はあったか?

そこに知はあったか?

 

赤ん坊が解剖学を知っているか?

街を歩いている人は歩き方を明確に言葉にできるのか?

 

何も知らなくても大丈夫。

そもそも感覚は常に存在する。

 

気づけばいいだけなのだ。

 

何も知らなくても

私たちは動くことができる。

 

頭で考えることをやめ

身体で感じれば

私たちは学ぶことができる。

 

それは人間が持っている能力だ。

人は誰しも学ぶことができる。

 

何か知らなくても

誰にも教えてもらわなくても

自分で発見し、気づくことができる。

 

難しく考えなくていい

むしろ考えなくていい。

 

赤ん坊のころのように楽しく

無邪気に学べばいい。

 

僕らは頭でっかちになって

動きの学び方を忘れているだけなのだ。

道具選びについて

その道具が使えないなら

 

なんのために使ってるか

どのように使ってるか

 

が間違えてます。

 

いくら切れる包丁でも

人を刺せば殺人で

野菜を切れば美味しいサラダになる

 

逆にいうと

全く使えないものだとしても

発想さえ変えれば

使えることもある

 

その道具が優れているかどうかは

自分のしたいことにマッチしてるかで決まる

 

自分がしたいことが明確でないと

いくら使い方を学んでも

上手く使えるようにはならない。

 

上手く道具を使えないときや

選べないときは

 

それは自分のしたいことが

不明確であり、道具より

自分に問題があることが多い。

 

自分のしたいことがハッキリすれば

どんな道具を選択し

どう使うかは

自ずと見えてくる。

 

自分のしたいことが変われば

また道具の選び方もまた

自然と変わっていくだろう。

 

道具を選ぶためには

道具の種類や方法ばかりを見るのではなく

まず、自分が何をしたいのかを見つめることが先決だと思う。

人類には必要ないことが必要だ

これも必要ない

あれも必要ない

 

というが

 

じゃあ

必要あることって何?

 

究極は

 

味気のないご飯食べて

たまにシャワーして

クソして

寝るだけ

 

その繰り返しで

人生が終わる

 

それ以外は

生きるために必要のないこと

余計なこと

 

 

これ寝たきりの人のケアにも言える

ことなんよなぁ

 

ただベッドの中で生かされることはできるけど

もっと色んなことしても

いいはずだもの

 

 

人生ってなんだろうねー

 

外に出なけりゃー

車に轢かれるリスクもない

 

誰かと関わらなけば

ハラスメントにあうこともない

 

新しい場所にいかなければ

失敗して焦ることもない

 

家にこもって

人と距離とって

不要不急を避ける

 

それが命を守ることで

逆にこれ以外のことは

多かれ少なかれリスクになる。

 

だけど

この逆をすることが

ケアなんよなぁ

 

外に出て

人と関わって

無駄なことをする

 

命を守るために

必要ないことをすることが

生きるってことで

 

だけど命を守らなければ生きれなくて

 

そう考えると

昔から命と生活は常に相反してきた

 

ケアの場面でも

転倒するから歩かせない

誤嚥するから食べさせない

血圧上がるから、ゆっくり風呂につからせない

 

比較的よくあることで

命を守るためのはずが

 

歩くことを禁じられて弱っていく人もいるし

口から食べれなくなって楽しみを奪われ、衰弱した人もいる

風呂が嫌いになって、暴力的になり薬で抑制された人もいる

 

一般論をいくら述べても

その人たちの人生はかえってこない。

 

結局命だけでは

僕らは元気には生きれない

 

今は過去の貯金で

ごまかしているに過ぎない。

 

過去の文化、過去の関係性

過去のメディアなどを消費して

 

今を生きてる気がしてるけど

それは本当に生きてると言えるのか。

 

新しい文化や、新しい関係性

新しい楽しみなどは

確実に減っている。

 

ステイホームでは

出会いはないし

 

zoomでは

人間関係がコンテンツでしかない。

 

コロナは確かに厄介だけど

生命だけ消費していくのも嫌だ

 

きっと命を守るだけでは

人は弱っていくだろう

 

人類には

必要ないことが必要なのだ。

 

どっちでもいいことに心血を注ぎ

しょーもないことに胸を熱くさせ

無駄なことに本気になる

 

それが

生きるってことじゃないかと。

 

 

 

単純にみえたことでも、色んなことの集合体である

例えば

立ち上がり一つとっても

 

その立ち上がりは

色んな動きの積み重ねで

出来ている。

 

逆にいうと

立ち上がりをするにしても

そのものを練習するのではなく

立ち上がりに繋がる

色んな動きをする必要がある。

 

見た目がシンプルでも

シンプルに出来るまでの過程は

複雑なのだ。

 

動きには繋がりある。

立ち上がりと歩行も繋がってるし

寝返りと座位も繋がっている。

 

それを理解したとき

初めて

シンプルで単純な動きの学習を支援することができる。

 

 

学んでも立派な人間にはなりません

学んでも偉くもならないし

 

人として価値があがるわけではない。

 

そんなものは1ミリも変わらない。

 

ただ

 

自分が楽しく

 

自分が楽に生きるために

 

学ぶ。

 

それだけです。

歩行=足の強さではない

歩行は全体で動いている。

 

足に負担がかかるのは、他の部位が参加していない。

 

もしくは他の部位が邪魔をしている。

 

足が弱いのではなく、足に負担がかかりすぎている。

 

足を鍛えてうんぬんではなく

足の負担を減らすことで、楽に歩くことができる。