ぼちぼちでええやん。

人の動きについて根っこから理解したいと思ってます。シンプルラーニング提唱者、キネステティク理事、YOUTUBE「楽な動きの学習会」ブログは癖が強い記事が多めです。

筋肉の名前は「本来の機能」を混乱させている

筋肉の名前って誰がどんな経緯でつけたのでしょう?僕はあまり知りません。

 

僕はセミナーの時に、筋肉の名前を忘れても特に問題ではない。知らない人がつけたのなら、今度は自分で名前をつけてもいいんだと話しています。それにはちゃんとした理由があります。

 

正確に筋肉の名前を述べても、その筋肉がどんな機能かを把握するほうが重要だからです。もちろん筋肉の共通した名前をお互い知っておくと、専門的な話もできるでしょう。それはそれでオッケーです。

 

しかし、利用者や患者さんとその筋肉の話をするなら、何も難しい専門的な名前で語る必要はありません。「〜さんがいつも好きな筋肉」とか、「僕が今触っている筋肉」とか「〜さんが今収縮してる筋肉」とかお互いの共通の体験から、名前をつけて共有すれば、アプローチする上では何も問題はありません。

 

要は機能を高めるために言葉は使いますから、機能が高まれば、なんだっていいのです。より動きの中で筋肉が働けば、その筋肉になんの名前がついていようが問題はありません。

 

機能を高めるという視点で、現在の筋肉の名前を検証してみると、今の筋肉の名前の一部はとても誤解しやいように名前がついています。本来の機能とは全く違う、筋肉の名前がついています。

 

今回は、筋肉の名前の特徴と名前の付け方から、検証していきたいと思います。

 

筋肉の名前を注意深くみていくと、主に2種類の付け方がされています。

 

1つは形態を表したもの。

上腕二頭筋なら

上腕部にある二頭の筋肉

 

大臀筋なら

大きなお尻の筋肉

 

ヒラメ筋なら

ヒラメみたいな筋肉

 

など、他にも沢山あげればキリがないが、多くはそのまま筋肉を表現したり、何か似ているものに例えて名前が付いています。

 

これは分かりやすくて、全然いいのですが、問題は2つ目の名前の付け方です。

 

それは、筋肉の機能から名前が付いているパターンです。

 

例えば

内転筋は

内転という動きをする筋肉

 

脊柱起立筋は

脊柱を起こす筋肉

 

 

などは

機能から名前が付いています。

 

ここで厄介なのは、2つあります。

ます、機能は1つの筋肉で行うほど単純ではいということです。

さらに1つの筋肉もすごく多様な動きに参加しているということです。

 

内転筋というと、どうしても内転することための筋肉というとイメージが先行してしまいます。

 

しかし、実際のところ重力の関係やほかのパーツとの関係性によって内転だけでなく、内旋もだし、屈曲も伸展に働く。また想像し難いかもしれないが、外転にだって働いています。

 

逆に内転という機能は、色んな筋肉や骨、重力などの協調によってできます。内転=内転筋ではないのではありません。しかし名前が内転筋なものだから、内転するものと多く人は誤解をしてしまうでしょう。

 

正確な表現ではないかもしれませんが、車の例を例にして考えてみましょう。

 

車の左の前輪は左に曲がるためでだけにあるものではありませんよね?右にも、まっすぐにも車が進むためには必要です。それなのに、左前輪は、「左方向進行輪」と名前がついていたら、左だけのためにあるように誤解してしまいます。仮に右に進みたいとき、この左前輪にトラブルがあったとしても、左の前輪は左に曲がるためだけのものという思い込んでしまうのです。そうなると左のことには視点が行きづらくなります。

 

脊柱起立筋にしてもそうです。

脊柱という大きな柱を立てる筋肉という役割はしていません。脊柱起立筋は細い筋肉です。その筋肉で背骨を重力の中で起こしていたら、たちまち硬くなって、背中がガチガチになってしまいます。実際そういう人は沢山いますよね。

 

脊柱起立筋の主な仕事は背骨を繋げるためです。脊柱を起こすのは、より大きな筋肉たちが協同して背骨をコントロールしています。

 

このように、機能から付けた筋肉の名前は、本来とは違う機能であるのに、あたかも付いている名前が誤解を生んでしまうことが多いのです。

 

もちろん、丁寧に自分で動きを探求していくと、いずれ気づくことです。いかに名前から動きを学習していくことが多くの誤解を生むのかを物語っているのがわかる例だと思います。

 

大切なのは、言葉を盲目的にらとらえないことです。言葉が正しいかのように思い込んで、現実と違うように把握してしまうこと。そしてその思い込みが、日常の体験を歪めてしまいます。

 

関係性が変われば、同じ言葉でも意味は変わります。時に真反対の意味にもなります。だからこそ、言葉ばかりに注意を向けるのではなく、使っている人がどんな関係性を理解することが、言葉の意味を知ることなり、言葉の本質です。

 

言葉をあてはめて現実を理解するのではなく、体験から言葉を理解すること。言葉に正しさをもつのではなく、言葉の意味の広がりを許すこと。どんな言葉でも正しいかどうかは使う私たちにあり、言葉そのものにはありません。必要であれば言葉を作ってもいいし、意味も広がります。

 

誰かがつけた筋肉名に振り回される必要はありません。言葉は道具です。いつも言葉よりも現実を生きている私たちが正しいのです。逆にいうと現実が上手く機能してるならば、今までつらつらとら書きましたが、言葉をそのまま使うのもなんら問題はないということです。より柔軟な思考と態度があれば、好きにすればいいってことですね。

 

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